火照り

 その息づかいは確かに過呼吸のそれだった。
私は一瞬ためらったけれど、それが聞こえる方へ首を回した。

 彼女は私の立っていた後ろの、6人がけのシートに座っていてデパートで品物を入れてくれる手提げ袋に半分顔を入れて肩を大きく上下させながら息をしていた。

電車の中で、左隣に座っている彼女より幾つか年上と思われる女性が、困惑しながらも右手で息づかいの荒い彼女の背中をさすっていた。

 私はもう一度ためらった。
でも、彼女のやり方は賢いやり方ではなかった。
私は出来るだけ何でも無い、と言う表情をして過呼吸の女性の前まで言って肩にかけたバッグを床に置き、そして彼女の前にヒザを付いた。

 私はためらわずに彼女のデニムのパンツの上から彼女の腿の辺りを軽くさすりながら言った。

「もう大丈夫よ、私が来たから。もう心配ないわよ」

左隣の女性が背中をさすっていた右手を彼女の背中から離した。

私は続けて無表情に話し続けた。

「薬は持ってる?じゃ飲みましょう。水はある?無いのなら私が持っているから大丈夫よ」
彼女は紙袋から顔を出し、自分のバッグから薬を入れたポーチを取り出し中から薬を1つ取り出すとそれを口に入れた。

「出来たら噛み砕いて。苦いかも知れないけれどその方が早く効くから。ハイ、これ飲んで。
一口じゃなくて、飲めるならもう少し飲んで。沢山飲んだ方が良いから」

彼女は3口私が持っていたペットボトルの水を飲んだ。
また肩で息をしている。水を飲んだせいで、呼吸が少し以前より速くなった。
それで不安が増したのか、腿の上においているバッグを支える両手が震えているのが分る。
私は腿の置いて手をそのままにして、話しかける。

「薬は飲んだから、いずれ効いてくる。それは知っているわよね。それまでは自分で努力しなくちゃ。
出来るなら息はゆっくりつきましょう。出来るならでいいから。
薬が利くまでだから、やってみて。出来るからでいいから」

 電車が止まり急行が先に通るまで停車する。
私は黙って彼女の腿の上に置いた手でゆっくり彼女の腿をさする。
少しだけ他人の目が気になる。この手を妙に思う人がいるはず、きっと。
でも、誰かが側にいると言う事を確実に知るための手段として、足や腕を触られるのは良い事。
背中だと息づかいに響いてくるし、肩など抱かれるのも、胸を締め付ける感じになってかえって辛い。
出来るだけ手足が良い。中心部から離れている方が触られる方は楽。

 彼女の呼吸が少し落ち着き始める。
彼女はまだうつむいている。
私はまだ腿に置いた手を動かしながら彼女に話しかける。

「落ち着いて来たみたいね。上手くやれたわね。良かった」

彼女はうつむいたまま顔を上げない。

「『また起きた』って考えてない?もし考えるんだったら『今日も起きたけれど、上手くやり過ごした、切り抜けること出来た』って考えて」

彼女が始めてうなずく。

私は話し続ける。

「調子が悪い時って、朝から分るわよね。そんな日は楽な服装にしょうよ。
デニムは止めて、体が締め付けられないものを着ましょう。
それから水はいつも持っていると良いわよね」

彼女が顔を上げて私を見る。そしてうなづく。

私は彼女の前から立ち上がり笑顔で言う。

「短い時間で切り抜けれるなんてすごいわね。じゃ、いってらっしゃい」

そう言って私は電車を降りた。
自分の顔が火照っているのが感じられる。
出来るだけ早くここから立ち去りたい。
ホームに滑り込んできた急行電車のドアが開くのがいつも以上に遅く感じる。
開いたドアから電車に乗り込み、私は車内の中部へ行き、眠っているスーツを着た男性の横に座る。
まだ顔の火照りが感じられる。
まるで悪いことを仕出かして逃げてきた気分。
私は目をつぶり、うつむいて、その火照りが収まるまどの位かかるか考えた。
そうしながら私は仕事へと出掛けた。
[PR]
by mercedes88 | 2006-05-04 13:53 | 日記
<< 友達だから 陽の色  >>